遠藤周作とアーネスト・ヘミングウェイ

遠藤周作とアーネスト・ヘミングウェイ、この二人に何かしら接点があるわけではない。(少なくとも私は知らない)
では、なぜこの二人の名前を記事のタイトルにしたのか?
私が影響を受けた作家トップ2なのである。(知らねーよ、とか言わないように)
それにしても、この二人は似ていない。容姿の話ではなくて。
遠藤周作という人は、そのユーモラスなキャラクターとは違い、力強くロジカルに意見を主張してくる骨っぽさがある。「私はこういう理由からこう考える」といった具合に明朗だ。精力的で自信に溢れている。はっきりしている分、解釈の自由度はあまりない。反対者も多い。
それに対し、ヘミングウェイは外見と違ってナイーヴだ。心に残る印象的な場面を、観察者の目で文章化していく。用心深く言葉を選びながら、丁寧に紡いでいく。著者自身の見解を奥に潜め、読者に多くを委ねてくる。強い主張を持たないため、強い反発を招くこともない。解釈の自由度は高いが、不明朗さにもやもやする読者もいるだろう。
ひと言でいうなら、遠藤周作は思いを前に出す熱いタイプであり、ヘミングウェイは思いを奥に忍ばせる醒めたタイプだ。個人的な見方だが、躁と鬱という印象を受ける。
ヘミングウェイ自身はこう語っている。
The writer’s job is not to judge, but to seek to understand.
作家の仕事とは判断を下すことでなく、理解しようとすること。
スタイルがまるで異なる二人だが、単純な二項対立にするつもりはない。どちらの作品からも私は力をもらっている。
もちろん、宗教へのスタンスはかなり違う。
ちなみに、ヘミングウェイは1927年にポ-リン・ファイファ-という女性と再婚している。彼女が敬虔なカトリック信者であったため、ヘミングウェイも改宗している。その後に出た「世の光」という宗教をテーマにしている名短編があるので、興味のある方はご一読を。ノーベル賞の受賞後に、キューバの漁師たちが信奉するコブレ教会にメダルを寄贈するなど、とても厚いとは思えないが信心を晩年まで持っていたようだ。
例のごとく、まとまりのない記事になったが、私の頭の中がカオス状態なので自然とこうなる。(開き直りか)
今日はこれでおしまい。
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