「郵便配達は二度ベルを鳴らす」 ジェームズ・M・ケイン

ジャック・ニコルソン主演の映画を思い浮かべる方が多いと思うが、実はこの「郵便配達は二度ベルを鳴らす」、アメリカ文学を代表する名作という評価を海外では得ている。(日本ではミステリーや推理小説のイメージが強い)

私はこの中編を何度も読み返しているが、読むたびに“好き”の度合いが増している。骨太で濃い語り口が、なんともたまらないのだ。こういう芯の通った人間臭い作品を読むと、やっぱり一人称小説って最高と思ってしまう。

一人称と書いたが、この主人公の口調はかなり無骨だ。

「テレかくしに、おどけてみせようとしたが、気のきかない間抜けづらしかできなくて、ギャグにもならねえ始末だった。それでもやつらはたばこを一本めぐんでくれて、とにかくおれは何か食うものを捜そうと、街道を歩き出したんだ」

終始こうした調子だ。下品と思うかもしれないが、野蛮な口調で哲学的な深みを帯びた言葉が語られる。例えば、海で泳いでいる場面・・・

「おれは両足をそろえてバタつかせ、もっと深く進んだ。耳がはじけるかと思うほど圧力がかかった。だが、まだ浮かび上がる必要はなかった。肺にかかった圧力が血液のなかへ酸素を送り込むから、何秒間は呼吸について考えないですむのだ。おれは青い水をみた。耳がガンガン鳴り、背中と胸とに大きな重みを受けながら、あらゆる悪魔的なもの、卑しいもの、ぐうたらさ、その他おれの生活のくだらないものがみんな押し出され、洗い去られて、もう一っぺんさっぱりと女といっしょにやり直し、女が言ったとおり、新しい生命をそだてる用意がすっかりできたような気がした」

強靭で生命力に溢れた文章を読んでいると、嬉しくなってきて思わず笑ってしまうほどだ

一応、あらすじを紹介しておこう。(*ネタバレ注意)

*ウィキペディアより引用

米国カリフォルニア。無頼の青年フランク・チェンバースは、パパダキスというギリシア人が経営するガソリン・スタンド兼レストランで働き始めるが、それは店主の美しい妻コーラに惹かれたためであった。多情な女コーラはすぐにフランクと関係を持ち、夫を殺害する計画を練る。自動車事故に見せかけて、うまくパパダキスを殺すことには成功するが、検事サケットは二人を疑い、パパダキスに保険金がかかっていたことから窮地に陥るが、弁護士カッツの巧みな手腕で、容疑をコーラにのみかぶせ、保険会社との取引で無罪とする。 二人の甘い生活が始まったかに見えたが、今度は本当に自動車事故でコーラが死んでしまう。フランクはコーラ殺しで告発され、パパダキス殺しについても告発され(前回告発されていたのはコーラのみのため、一事不再理は適用されなかった)、死刑を宣告される。

はじめに書いたが、この小説は本国アメリカでは娯楽小説として扱われていない。アルベール・カミュの「異邦人」なども、「郵便配達は二度ベルを鳴らす」の影響を受けていると言われている。この作品の魅力を、翻訳者の田中西二郎氏は「荘厳の域にまで達した人性の悪の濃いコバルト色のかがやき」と称している。わぁお、なんてカッコイイ表現なのだろう。あとがきの言葉があまりに素晴らしいので、最後も引用で締めたいと思う。

「フランク・チェンバーズは無知で卑劣で、兇暴な悪党であるが、この男の生涯から作者が釣りあげたものは荘厳な“人間”の魂の血しぶきである。ルオーを想わせる原色の厚塗りの文体が、そうさせたのである」

郵便配達は二度ベルを鳴らす (1963年) (新潮文庫)

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