「感謝祭の客」 トルーマン・カポーティ

「感謝祭の客」は、光系カポーティと闇系カポーティという俗な分け方をするなら、前者に属する短編だ。光系は自伝色が濃くてイノセントなアラバマのスモールタウンもの。闇系はオカルト色が濃くて絶望へ向かうマンハッタンもの。それらはポジとネガの関係なのかもしれないが、作品のムードは別の作家が書いたと疑いたくなるほど異なる。「感謝祭の客」には、「ミリアム」や「夜の樹」が持つ背筋が寒くなるような気味の悪さは微塵もない。誰にでも勧められる美しい一篇だ。

それにしても、読むのが楽だった。疲れないし、ストレスを感じない。この作品に限ったことではないが、カポーティの短編はすうっと読めて、脳内にふわぁっと溶けていくようで心地好い。(擬態語が多くてわかりにくいな) 安酒やジャンクフードって、消化に悪くて内臓がもたれるでしょ。カポーティの作品には不純物が混じっていないから、融解性がとても高い。いくら摂取しても、体に負担が掛からない。(例えが下手過ぎだ)

文豪にありがちな鼻につくところや、自己陶酔もない。作為的でもなければ、黴臭ささもまるでない。とにかくナチュラルで違和感がない。完璧な文体を有する作家の短編を、淀みない文章を書かせたら右に出るもののいない村上春樹氏が訳したのだから、必然のクオリティなのかもしれないが。

この短編は「僕」という一人称で書かれている。「僕」の名はバディで、これは少年時代のカポーティの愛称であることからも自伝的な作品だとすぐにわかる。といっても楽しかった少年時代へのノスタルジアではない。「誕生日の子どもたち」の感想でも書いたが、大人が語る思い出話ではなく、完全に子どもの心で書いている。その純度の高さは驚くほどで、欲望や執着にまみれる前の純真さで充ちている。1967年に世に出た作品なので、おそらく40代前半の作品だが、この瑞々しいまでの無垢さは奇跡的とさえ思える。これほどにデリケートでイノセントな感性を持つ中年男性はいないだろう。皆さんのお知り合いの40代男性を思い浮かべてみてほしい。決めつけて申し訳ないが、例外なくおっさん臭いはずだ。

あらすじは書かないことにする。ネタバレするようなことも書きたくないが、苛めっ子への復讐を実行した「僕」が、ミス・スック(かなり年上の独身のおばさん、でも親友)に諭される場面が強く印象に残る。多くの読者に刺さるであろう決めの一文を紹介しよう。

「世の中にはたったひとつだけ、どうしても赦せない罪がある。それは企まれた残酷さだよ。」

これは手厳しい一言だ。私の中にある冷酷さや悪意の存在を見抜かれた気がして、瞬殺させられてしまった。

ミス・スックは実在の人物である。悲惨な幼少時代を過ごしたカポーティが、親に捨てられて親戚の家で暮らしていた頃に心を通わせた年上のいとこであるらしい。居場所のない孤独な二人にとって、互いの存在は唯一の拠り所であったはずだ。作品に滲み出ている繊細な良心は、二人で過ごす時間の中で芽生え、育まれていったのだろう。カポーティが優しいのは、ミス・スックがどこまでも優しい人であったからだと思う。

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