奇妙な文章

奇妙な文章

次の文はヘミングウェイの「最前線」という短編の一節だが、何か気になることはないだろうか。

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ニックは低くえぐれた道路をもどりはじめた。午後になって、あの運河を通りすぎれば、道路も涼しくなるだろう。運河をすぎてしまえば、道路の両側には、一発の砲弾も浴びていない街路樹が並んでいるのだ。あるとき、槍を抱えて雪中を行軍するサヴァイオ第三騎兵連隊とすれちがったのも、そのあたりだった。活気の中で、馬の吐息が羽毛のように白かった。いや、あれはどこか別の場所だった。どこだっただろう、あれは?

「とにかく、あの自転車の所にもどったほうがいい」ニックは独りごちた。「フォルナチに帰る道を見失いたくないからな」

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特におかしな点はないと思われた方が多いかもしれない。私にはどうしても気になる点がある。

では、もう一度。今度は誰が話しているのか、声を思い浮かべながら読んでみてほしい。

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ニックは低くえぐれた道路をもどりはじめた。午後になって、あの運河を通りすぎれば、道路も涼しくなるだろう。運河をすぎてしまえば、道路の両側には、一発の砲弾も浴びていない街路樹が並んでいるのだ。あるとき、槍を抱えて雪中を行軍するサヴァイオ第三騎兵連隊とすれちがったのも、そのあたりだった。活気の中で、馬の吐息が羽毛のように白かった。いや、あれはどこか別の場所だった。どこだっただろう、あれは?

「とにかく、あの自転車の所にもどったほうがいい」ニックは独りごちた。「フォルナチに帰る道を見失いたくないからな」

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いかがだろう?

この文章、「ニックは・・・」と三人称で始まるが、どこからか一人称になり、また三人称に戻る。三人称単視点の小説は多いので、自然に読めるといえば読めるのだが、私はちょっと気になってしまった。

別の例をもう一つ。

「二つの心臓の大きな川」(ヘミングウェイ作)も三人称で書かれている短編だが、次のような文章がある。

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それから彼は歩きだした。実際、なんと大きな鱒だったことか。ああ、あんなに大きな鱒がいるなんて、聞いたこともない。

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これも「彼は」と三人称ではじまるのに、「ああ、あんなに大きな鱒がいるなんて、聞いたこともない」と、改行もなく一人称に変わっている。

実際に声に出していない言葉は「」で括っていないため、地の文に溶かして書かれているのだが、改行がないため、どこから心の声に変わったのかわかりくにい。翻訳文ではなく原文で検証すべきとは思うが、フィッツジェラルドやカポーティを読んでいる時にはこうした違和感を覚えない。

「贈り物のカナリア」(ヘミングウェイ作)という短編は、アメリカ人夫婦の夫の一人称「ぼく」で書かれている。パリ行きの汽車で知り合ったご婦人と会話を交わすだけの話だが、「ぼく」が知らないはずのご婦人の気持ちが途中で描かれている。普通に読んでいる分には違和感はないのだが(まず気づかない)、私のように「一人称なの?三人称なの?」とつぶやきながらチェックしている面倒な奴は引っかかかってしまう。なぜ、「ぼく」がそれを知っているのさ?とページをめくる手が止まってしまうのだ。

小説は型にはまらず作家の感性で自由に書けばよいのかもしれないが、こういう矛盾があると、基本的に文章として成立していないと思ってしまうのだが、どうなのだろう?

「蝶々と戦車」(ヘミングウェイ作)もざっと読み返してみたが、こちらは一貫性のある一人称だった。(やっぱり良い短編だ。あの店内の喧騒に惹かれる)

ヘミングウェイは、一人称と三人称をシームレスに切り替える文体を、フィーリングとして違和感がなければ問題無しと考えていたのかもしれない。私は専門家でもないし、研究家でもないので、的外れな低レベルの話をしている気もするが、村上春樹氏の短編にはそうした矛盾はないと思う。

私が考えすぎなのか?頭が固いのだろうか?木を見て森を見ずになっているのだろうか?

うーん、なんかモヤモヤする。。。