「かいつぶり」 村上春樹

「かいつぶり」 村上春樹

村上春樹氏の短編は、夜になってから読むことをお勧めする。ガチャつく夕方などに読むと、物語の中に入っていくのが難しい。読書は調べ物や情報収集ではないので、ある程度は周囲の雑音から遮断された環境が好ましい。もちろん、作家や作品によって違うので一概には言えないが。ちなみに、私は飛行機に乗る時には村上龍氏のエッセイを持っていく。びっくりするくらいフィットする。作品にもよるが、ヘミングウェイは早朝の清々しさの中で読むことが多い。カーヴァーを読むのはだいたい深夜。休日になると、山本周五郎を読みたくなったりする。(それにしても嗜好がバラバラだ)

というわけで世の中が静まる夜を待って「かいつぶり」を再読し、記事を書いている。大幅な加筆修正があったようで、自分がどのバージョンを読んでいるのかよくわかっていないのだが、「ニューヨーク発 24の短編コレクション」に収められたものについて書いている。

コンクリート造りの狭い階段を下りた先の長い廊下を通り、ラクで給料の良い仕事へと初出社する「僕」。ドアをノックするとバスローブを着た男が出てきて、合言葉を言わないと入れるわけにはいかないという。合言葉を知らない「僕」は、執拗にヒントを要求する。水に関係があって、手のひらに入るけれど食べられない、「か」ではじまる5文字のことば。「僕」は「かいつぶり」と答えるが、男は不正解だという。それでも「僕」は食い下がり、何とか上に取り次いでもらう。

かいつぶり、という音や字面がいかにも著者らしい。かいつぶりというのは貝の一種ではなく水鳥のこと。著作権フリー素材があったので貼っておく。

さて、「かいつぶり」という短編だが、正直なところ謎だらけだ。理屈でなく、ひらめきで書いた作品であると著者本人が語っているようだが、それも本心かどうかわからない。煙に巻いて、舌を出しているかもしれない。(そんな人じゃない気もするが) 巷にはいろいろな解釈が溢れている。多義性を許す書き方をしているので、解釈を楽しもうと思える人には一粒で二度美味しい小説と言える。モヤモヤするのが嫌いな人にとっては、ストレスを残す読書となるだろう。授業でこの短編を取り上げている学校もあるようだが、明確な答えが存在するわけではないので、子どもたちに想像力や考える癖をつけさせるのが目的といったところだろうか。

このパラレル・ワールドは、とても解釈の自由度が高い。前向きにも後ろ向きにもとれる。私は、村上春樹作品への誹謗中傷に対する反撃ではないかとふと思った。「かいつぶり」は合言葉ではないと断られ、「手のりかいつぶり」の存在すら疑われる。これは直感を信じて生きる「僕」と、理屈を並べてそれを否定する側との対決を描いているようにも思える。つまり、アンチ村上春樹の連中に対する著者独特の怒りの表明だ。ただ、「僕」がラクで給料の良い仕事を求めている点を考えると、やや腑に落ちない。小説家になることを、著者はラクで給料の良い仕事と考えていることになってしまう。会社員として生きることに比べたら、著者にとってはラクなのかもしれないが。擬人化された手のりかいつぶりが出てくる最後のシーンは「僕」の想像の産物で、人の自分勝手な振る舞いが歪んだ世の中を作っているという社会批判と考えることもできる。まあ、どう読むかは個人の自由なので、私は前向きに解釈しようと思う。

少し話はズレるかもしれないが、YoutuberのHIKAKIN氏が「嫌なことはたくさんある。でも、怒りの感情を創る力に変えている。そういう変換が僕は得意」といったことを話していた。直情的にやり返すのではなく、自分の中で創作力に変えて、憤懣の情をそこで燃焼させる。これは性格によるところが大きいと思うが、村上春樹氏にも共通点を感じる。平和的な対処の仕方だ。「良い刀は鞘に入っているものですよ」というセリフが「椿三十郎」にあったが、攻撃に対して露骨に牙をむく人はやはり品がない。(いるでしょ、自分が否定されるとすぐ噛みついてくる人。やたら捲し立て、相手を論破することが生き甲斐みたいな人)「かいつぶり」が著者にとっての怒りの発露かはわからないが、村上春樹という人は自己救済のために、内に秘めた感情を変換させて小説に落とし込んできたのではないだろうか。そう考えると、作品への親近感が湧いてくる。ヘミングウェイも自己救済のために小説を書いていた。やり場のない不満や不安を、書くことで解消していた。芸術作品を作りたい、といった欲求からではなくて、書かなければ生きることが辛かったのだと思う。

めくらやなぎと眠る女