「生き上手 死に上手」 遠藤周作

今回は短編ではなく、1991年初版の遠藤周作のエッセイ集について書こうと思う。30年近く前の随筆だが、古さを微塵も感じさせない。さまざまな角度から柔らかにものごとを見る感性がベースあるので、ある種の普遍性が宿っている。

別の言い方をすれば、「私には道理が見えている。心して読みさい」という押し付けがましさがまるでないのだ。けっして尊大な態度をとらないし、ユーモラスで親しみやすい。どのエッセイにも、思いつくままにとりとめなく書いているような慢筆感が漂っていて、そこには何度でも読み返すことができる多面性とバランスの良さがある。

遠藤周作というと宗教のイメージが強いため、敬遠してきた人も多いかと思う。信心をあまり持たない日本人にとっては、敬虔なクリスチャンというだけで、「通じ合えない価値観の異なる人」と先入観を抱いてしまいがちだが、遠藤周作は我々の側に居る作家だ。キリスト教についても、疑い、悩み、時に否定し、苦しみながら独自の落としどころを探しつづけてきた迷子のような人である。いつだって客観性を持ち合わせていたからこそ、信心を持たない多くの読者にも愛されるのだと思う。

このエッセイ集の中で、遠藤周作は小林一茶の臨終の句を紹介している。

美しや 障子の穴の 天の川

1813年、一茶は息を引き取る前、病室の破れ障子からきらめく星々を眺め、この句を詠んだという。この心境こそが「死に上手」だと著者は言う。

調べてみたところ、この句にはさまざまな解釈があるようだ。善光寺で病に伏せていた折、快方に向かい始めた一茶が、小さな障子穴から見える天の川に感動したという説。激しい苦痛に苦しみながらも、苦労の果てに故郷へ落ち着き、安堵の思いから天の川の美しさに改めて気づいたという説。

常に病と向き合い続け、死を人一倍意識しながら生きてきた遠藤周作は、この句を知った時、「死に上手」という解釈へ自然と至ったのであろう。

遠藤周作という人は、とても多くの本を読み、読書で心を豊かにしてきた人だと思う。日本人の読書量は、世界的に見てかなり少ないというデータがある。確かに電車や公園で本を手にしている人をあまり見かけない。会話の中で、本の話題が出ることもあまりない。読書をする人としない人、中高年になった時にどのような差が出てくるのだろう。私は遠藤周作のエッセイから、心の豊かな膨らみを感じとり、それは良書によって育まれたのだと確信する。

「生き上手 死に上手」は、著者の他のエッセイ集と同様、退屈とは無縁の楽しい時間をくれる。タイトルほど重たくはない。でも、そこには確かな重量がある。私が最も好きな日本人作家は、読書の愉しさと力を、さまざまな逸話を通してユーモラスに教えてくれる。

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