「本土からの吉報」 アーネスト・ヘミングウェイ

原題は、Great News from Mainland。ヘミングウェイの死後に発表された(つまり、著者が公表したくなかった)キューバ時代の短編だ。

1939年、ヘミングウェイはキューバのハバナ郊外に建つ邸宅フィンカ・ビヒア(Finca Vigia)で暮らし始めた。その時の妻はマーサ・ゲルボーン。(この時点では二番目の妻ポーリーンと正式に離婚しておらず、マーサとは翌年に結婚する) 年齢的に中年を迎えていたヘミングウェイだが、この時期も相変わらず世界中を活発に飛び回っている。戦争への関心は醒めることがなく、連合軍のノルマンディー上陸作戦に参加するなど第二次世界大戦を精力的に取材。(ドイツ軍の兵士を手榴弾で倒し、勲章をもらっている) 45年にはマーサと離婚し、翌年メアリーと再婚している。(次々に妻を変える男だ) 51年に母のグレイスが死去したが、葬儀には出席していない。(母親との不仲は有名だが、よくある親子の確執とも違う。父親への揺れ動く思いも含め、関係性はとても微妙でややこしい。説明するには5000字くらいは必要なので、それはまた別の機会に)  53年にはフランス、スペイン、アフリカへと長期旅行に出かけている。54年は不運な年で、2度の飛行機事故に遭い、重傷を負っている。その年にノーベル賞を受賞した。キューバ時代だけでも、このようにエピソードは枚挙にいとまがない。波乱万丈な人生である。

キューバ時代のヘミングウェイは、「誰がために鐘は鳴る」「河を渡って木立の中へ」「海流のなかの島々」「老人と海」など長編を中心に執筆している。「本土からの吉報」は、生前には存在が知られていなかった短編だ。息子を診ている医師との電話でのやりとりが、そのほとんどを占めている。5人のスタッフを相手に大暴れして治療が延期されたことなどを聞き、息子の精神状態が酷いことを知る。一言でまとめてしまえば、父親の塞ぐ気持ちを描いた重苦しい話だ。

この短編の一つのポイントは、家の外で強い南風が吹き続けており、多くのものから生気と収穫が奪われたという点だ。タチの悪い南風はいつもレント(四旬節)に吹くことから、地元ではこの風をレントと呼ぶと書かれている。日本人にはわかりにくいが、四旬節(しじゅんせつ)とは、イエス・キリストの受難と十字架の死をしのんで修養する復活祭前の40日間のことだ。40日間は、イエスが荒野で断食した日数にちなんでいる。作家であるこの父親は、レントと呼ばれる風を文学的に用いる衝動に逆らっている。タチの悪い南風とタチの悪い息子を重ねて、精神修行などと考えることを拒絶しているとも解釈できる。そういった、いかにも文学といった短絡的な発想は低俗なのだと。これはヘミングウェイが他の作家を暗に非難したものともとれるし、バッシングへの反撃なのかもしれない。ヘミングウェイの気持ちはわかるが、父親の苦悩とはまた別の問題のようにも思え、話の焦点を不明瞭にしてしまっている印象を受けた。

同じく死後に発表された「何を見ても何かを思い出す」も、息子の実際のありさまを知って苦悩する話。父親の懊悩というモチーフは、他のヘミングウェイ作品では見ることができない。一般的なマッチョのイメージとはかけ離れた、生活臭の漂う、ある意味でとても貴重な作品だとは思う。

著者本人は、生前にこの短編を発表しなかった。モデルにされた息子が読めば傷つくと考えたのかもしれない。あるいは、作品としての魅力や質に問題があると感じていたのだろうか。

ヘミングウェイ本人は、心配ごとや悩みごとがあると、それを小説にすることで解消してきた。(本人がどこかでそう書いていた)  ヘミングウェイ作品に辛い題材が多いのは、そうした理由もあるだろう。三男グレゴリーの著書「パパ 個人的な回想」によると、「本土からの吉報」「何を見ても何かを思い出す」は実話であったようだ。父親としての沈痛な思いに苦しめられたヘミングウェイは、もはや書くことでしか憂鬱を軽減できなかったのかもしれない。

読んでおいて言うのもなんだが、著者の意に反して出版するというのはいかがなものだろうか。研究材料としての価値はあるかもしれないが、やはりそれは良くないことだと思う。

蝶々と戦車・何を見ても何かを思いだす―ヘミングウェイ全短編〈3〉 (新潮文庫)

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