「どこであれそれが見つかりそうな場所で」 村上春樹

ご機嫌いかがですか?
いろいろ上手くいかなくて疲れていますか?

もしそうなら、私も同じですよ。もがきつつ、どうにかやっています。

妙な挨拶から入ったが、久し振りの解題のせいか、ちょっと変なテンションで書いている。グーグル・アナリティクスというアクセス解析ツールを見ていると、私のブログにもリピート訪問してくれている方がいるようで素直に嬉しいと思う。更新が滞っているというのに有り難い。閲覧者の男女比はほぼ半々で、10代は少ないが年齢層はとても幅広いようだ。(グーグルの予測) おそらく真面目な方が読んでくださっている気がする、なんとなくそう思う。

「早く小説の話をしろ!」という声が聞こえてきたので本題へ。

先に断っておくが、今日の解題はロジカルでなく、とりとめがないものになる。読み終わって「ふざけるな」とならないように、はじめに宣言しておきたい。(まあ、いつものことなのだが・・・)

今回取り上げる短編は、村上春樹作の「どこであれそれが見つかりそうな場所で」という謎めいたタイトルの一篇。著者は2005年に「東京奇譚集」と題した連作短編小説を発表しており、本作品はその3作目に当たる。

表現のスタイルとしては探偵小説であり、主人公は「僕」でも「ぼく」でもなく「私」だ。やはり探偵小説は「私」がしっくりくる。

この短編には一人の男の失踪という大きな謎がまずあり、その不可解さに物語を牽引させている。ミステリー小説やサスペンス映画などに多い手法だ。(村上春樹氏の場合、謎が謎のまま終わるので一括りにはできないが)

真相がわからないことや不思議な現象など、「謎」というものはとても魅力的でキャッチーだ。秘密結社、ケネディ暗殺、911テロ陰謀説、ピラミッドなど、多くの人が「謎」に魅せられ、未解決事件や都市伝説を扱う番組も高い視聴率を取る。そこに謎がある限り、謎が謎のままである限り、多くの人は理屈抜きに強く引きつけられてしまう。逆に言うなら、解明されてしまえば「なーんだ」となる。

ネット上にはこの短編を絶賛する声が多い。おそらく、謎が放つ魅力に心を奪われているのだろう。(別に批判しているわけではない。謎はいつだって魅力的なのものなのだから)

あらすじはシンプルだ。9月の雨の日曜日、高層マンションの24階から26階へ移動している時にメリル・リンチに勤める中年男性が失踪してしまう。夫を捜してほしいと、その妻が主人公の「私」に依頼してくる。事の真相に迫ろうと、「私」はその階段に足繁く通う。という話だ。筋は短く要約できるのだが、謎解きとなるとかなりややこしい。いろいろと怪しげなモノやら人やらが、物語のあちこちに散りばめられているためだ。

男性は何か事件に巻き込まれたのか?それとも妻も知らない秘密を抱えていたのだろうか?突然狂ってしまったのかもしれない。。。

細かい分析は他のブログに任せるとして、「システムからの解放」が描かれているのかなと私は感じた。職場でも家庭でも責任を背負い、自分の役割を演じてきた夫が、何かのきっかけで外側へと飛び出していく。「システムからの解放」がこの短編の中心にあって、しかしながら「解放」は思うほどに幸せなものではない、というのが私が抱いた感想だ。人は重荷を背負い苦境に立ち向かっている時の方が端から見て輝いていることがある。(本人にしてみれば大変なのだが) 貴乃花元親方は、協会との軋轢の中でなんとか踏ん張っている姿が魅力的だった。引退したスポーツ選手や政治家が、重荷を下ろしたことで急にオーラを失うことはよくある。当の本人にしてみれば想像を超えた重圧やストレスと闘っていたのだろうから、勝手なことを言うなとなるだろうが。

会話の中でドーナツが出てきたので、この記事をミスター・ドーナツで書いている。(コーヒーおかわり無料!) 店内にはずっとBGMが流れているのだが、シャーリーンの「愛はかげろうのように」(原題:I’ve Never Been To Me)が聴こえてきて心を奪われてしまった。そして、何故かはわからないが、「どこであれそれが見つかりそうな場所で」という短編と30年以上前のこのヒット曲がシンクロした。とにかく、この曲は歌詞が良い。大抵の小説が吹っ飛んでしまうほど胸に迫るものがある。柔らかで透明感いっぱいのポップスに、これほど重い心情を乗せたというのは驚きだ。

ということで、今日はここまで。ほら、はじめに宣言した通り、まとまりがないでしょ。

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