「蟹」 村上春樹

大手銀行に勤める28歳の男性と中学校で英語を教える26歳の女性が、休暇を取ってシンガポールの海辺の町を旅行する。女性のレストラン選びの直感力を信じ、地元の蟹料理専門の食堂へ入る。安くて美味しいことから、二人は4日間連続でその店へと通う。旅行最終日の深夜、男性は目を覚まし、トイレで胃の中のものをすべて嘔吐する。吐き出した蟹の肉に大量の白い虫が付着し、うごめいているのを見る。

というストーリーだ。別の短編小説「野球場」の作中作を短編化したものだが、逆輸入のような形で入ってきたらしく、コアなファンにはおそらく堪らない一篇だろう。「野球場」は未読なので、独立した一つの短編として読んだ。

この男女は二人とも安定した仕事を持っており、落ち着いた良い関係を築いているように思える。二人の間に諍いなどはなく、旅行も満喫している。それなのに男性は二人の幸せな時間を象徴する蟹をすべて嘔吐し、「世界が変わってしまい、もう元には戻らない」と確信する。女性は男性の異変にまるで気づいていない。男性は、嘔吐したことを女性に伝えない。3日前のことが遠い昔に感じられ、この女性とはやっていけないと感じる。

理屈ではなく、感覚的に、あるいは本能的に「無理」という感覚。これまで大切だと思っていたものが、まったく異なる別のものに変わってしまう瞬間。この抗えない感じ、とてもよくわかる。わかるだけに、リアルに怖い短編だと思った。

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