「清潔で、とても明るいところ」(続き) アーネスト・ヘミングウェイ

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この短編は、「私」や「我々」という一人称ではなく、三人称で書かれている。いわゆるカメラアイで描写が進む。老人が店を後にし、続いて若いウェイターが帰路に就く。年長のウェイターが一人になったところで「彼は自分自身と語りつづけた」という一文が入り、そこからは一人称での語りが中心となる。私はナラトロジーの専門家でも何でもないので、分析などできない(するつもりもまったくない)が、最後まで三人称で通していたなら受ける印象はかなり違ったものになっていた気がする。年上のウェイターが抱える虚無感を、これほど息苦しいほどに感じられなかっただろう。逆にすべて一人称で描いていたとしたら、少し野暮ったく精彩さを欠いたものになっていた気もする。

正直なところ、「人称」のことは思う以上に複雑で自分にはよくわからない。「清潔で、とても明るいところ」と同じ短編集「勝者に報酬はない」に収録された「世の光」は、「ぼく」という一人称で書かれている。しかし、内向的な「ぼく」がカメラアイの代わりをし、我を出さない形で友人や周囲の人々を観察する。客観的な描写の中に、ふと湧き上がる「ぼく」の欲情をさりげなく溶かして書いている。ヘミングウェイというとすぐに「非情の文体」と言われるが、このあたりのデリケートな感性が自分にとっては大きな魅力だ。主要な登場人物であるカフェで働くウェイター二人と耳の聞こえない老人。どの人物にも名前を付けず、「帰りを急いでいるウェイター」や「年上のウェイター」などと表現する距離感も心地好い。

ちなみに村上春樹氏の場合、「僕」という一人称の印象が強いが、「海辺のカフカ」や「1Q84」で三人称を用い、最近の作品で「私」という一人称に戻った。一人称を「元のフィールド」と自身で呼んでいるように思い入れがあるようだ。人称は、ベテラン作家にとっても難しい選択なのだろう。

「清潔で、とても明るいところ」の設定はかなり暗い。真夜中のスペイン。人気のないカフェで、自殺未遂をした年老いた聾者がひとりブランデーを飲む。深い孤独と虚無を描き、散りばめられたメタファーについては数多くの分析や評論がある。ネット上でも簡単に見つかる。研究対象として解析され、さまざまな意味づけがなされているが、当の作家は計算づくで書いたのではないようだ。おそらく、脳裏に残る風景やどこか心に引っかかる言葉をとっかかりに、道無き道を行くかのように書き進めたのだと思う。「小説の行き先など絶対にわからない、書いていると小説がひとりでに展開していく」といったことをヘミングウェイ本人もエッセイに書いている。

勝者に報酬はない・キリマンジャロの雪―ヘミングウェイ全短編〈2〉 (新潮文庫)

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